『ヴィンダウス・エンジン』感想
奇跡というのは、イカれた現実の別名だ。
私はツイッターで「自分は想像力の連鎖と飛躍がまだ見ぬ世界へ連れて行ってくれる、そんな物語を求める傾向が強い」という旨のツイートをした。
この作品『ヴィンダウス・エンジン』は、のみならずこの作者、十三不塔の物語は、まさにそうした嗜好を満足させてくれる物語だと思う。
とまあなんとなくご立派な言いだしをしてみたものの、これは偉そうな書評でもなんでもなく、あくまで一個人の初読の感想です。
あと、私は十三不塔氏とはリアルでも面識があり、別所でほかの作品(小説、舞台)に触れたり、なんというか指導を受けたりした経験もありますので、そうした立場からの感想であることも記しておきます。
あと、ネタバレもするかもしれません。すると思います。
以上を踏まえて、以下、感想です。
※初読の感想を書き連ねようと思っていたのに、日が過ぎてしまい果たせず、パラパラと読み直しております。
まず、ヴィンダウス症の「変化するものしか認識できない」という性質は、同じSFでタイトルの元ネタとなっているだろう「ディファレンス・エンジン(差分機関)」の言葉から引用(というかちょっとしたジョーク?)されているものだろうと思っている。
(ディファレンス・エンジンは、「ディファレンス」と名がついているものの、差分を計算するというものじゃないんだけど、なんだかSF的な解釈欲求を掻き立てる。ギブスンがタイトルにするだけのことはあるというか)
ヴィンダウス症が主人公キム・デフンにもたらした変化(変化しか捉えられないという世界への変化(トランスファ))を軸にグレッグ・イーガン、テッド・チャンなどに見られるような物語展開がなされるのかと思いきや、物語はもっと先、もっともっと先へと加速していく。
とにかく、テンポがいい。
そして、カッコいい。
映画にピッタリ。
俺たちがカッコいいと思うあらゆるものを押さえていて、それをきちんと文章に乗せてくれる。
そしてカッコいいものの幅があまりに大きい。
大きいが故に、一つ一つのものに執着がないのかもしれない。
オタク的な執念で描写するようなことをせず、サラッと描いていく。
そこの違いを、かの伊藤計劃アニキと、無粋としりつつ比較せずにいられない。
ただ兄貴は言うてもオタクであり(いわゆるあの世代のアニメオタクとは違う。むしろアンチ・アニメオタクであるが、そうした人種を強く意識していたことはブログ記事などから感じられる)、執拗さをもって自身のテーマを物語に落とし込んでいるが、一方でヴィンタウス・エンジンは(というか氏の作品は )、一つ一つのモチーフを、アイディアを掘り下げていくスタイルを取らないし、取る必要がないのかもしれない。
そもそもそれをしないからこその読み味が生まれるのかも、とも。
個人的には好きなんです。そのスタイルが。
説明されすぎるのって野暮とも思うし。
読者を信用してくれているようにも思える。
解説に時間と頭脳を使わせず、物語の展開とスタイルのカッコよさをどんどんサービスしてくれる。
脱線した気がする。
以下、ネタバレしまくります。注意。
寛解によって転生したテフンとマドゥ。同じ寛解者である二人の差は面白かった。
自分はこの二人がある意味で鏡合わせの存在=ヴィンダウスから生まれた兄妹のような存在になっていくのかと推測したか、少し違ったか。もう少し物語の確信にマドゥがかかわるかと思ったが、表層的な物語上にはマドゥの出番はなかったように思う。
後ほど寛解者がAIにとって重要な存在になっていく、そのバックボーンとして、マドゥのような寛解者の在り方が必要なのかもしれないが、八仙がテフンに接触する際のペルソナ、テフンを呼び寄せるための案内人のアバター役でしかなかったのだろうか。
ちょっと自分の理解が乏しい。
寛解によって作り替わった脳。覚醒し、常人を超えたポテンシャルを引き出した異能者となったテフン。
世界を認識するために自己の感覚(センス)を極限まで使用できる頭脳は、八仙にとってこの世にまたとない価値のある生体センサーであり、入力装置であったのだろう。
このあたりが、改稿前は説明不足だったのだろうか。
あるいはマドゥが聖人として描かれているように、テフンのそれもスーパーナチュラルな能力として捉えられ、その力で八仙のようなAIがさらなる進化を得ようとするというところにも、科学的ロジックが不足しているということだろうか。
AI、人工知能といえどコンピューターには変わりなく、入力→演算→出力の流れも変わらず(これは人間の頭脳もしかり)、AIが既存のやりかたでは得られない学習データの入力を求めてヴィンダウス寛解者に接触してきたという流れは、それほど不自然ではないように感じた。
んーまあ改めて読むと、確かに負荷価値(バリュー)の運用にヴィンダウス寛解者の特性が有効であるという理屈は、ちょっとわかりにくい気はする。
世界のわずかな変化を逃さない超感覚、その入出力のパターンを取り込むことで、八仙が自身にモデルを構築し、それを成都の運用全体に生かす。モデルが実運用に耐えうるところまで学習できたと評価されるまでは、寛解者がモデルとして運用される――などと妄想したが、わりとシンプルに、八仙とテフンの共生関係あってのヴィンタウス・エンジンであるようだ。
もっとも、テフンが唯一のヴィンタウス・エンジンでありつづけるとは限らないし、八仙もそのつもりはないだろう。テフンはプロトタイプとしてバイオ・コンピューターとしての役目をいずれは終え、第二、第三のエンジンが誕生、並列稼働し、AIはさらなる進化を遂げていく………
という未来を是正(デバッグ)できるか、というかまあそんな感じ?
うーん、通退勤時間などで駆け足で読んだことがまるわかりの理解である。
強襲型仮想現実において圧倒的な情報処理能力がモノをいう格闘戦。
羅宇炎が駆使するは実践拳法でありながらムービー・カンフーを代表する流派の一つでもある詠春拳。
対するテフンが即席で編み出した格闘術は心会掌という武術に酷似して……。
もう余計なことは言うだけ野暮。
即、映画化するべきですよ、はい。
もっと見たいシーンでした。
106ページ。
映像のリアリティにいかに聴覚が関わるか。
こういう話が出てくる人を私は強く信頼してしまう。
碧灯照でグリーン・ランタンズ。
カッコいいっすね。
サンギータは、なんか、もったいなかった。
テフンのバディになれる、とは思わなかったけど、目撃者以上のポジションでなかったような印象なのは、もったいない。
普通の人間であり、利害から離れたところにいる科学者の立場だからこそ物語に介入できた何か、があれば、月並みではあるけど、物語のなかで彼女の存在が際立ったように思う。もちろん、ありふれたロマンスも、童貞野郎に都合のいい美少女ヒロインなんてものも望んじゃいないが。
李鉄拐のキャラクターからはなんとなくハガレン『鋼の錬金術師』のホムンクルス、「強欲」グリードを連想した。まーなんとなくですが。
267、268ページ。
このシーンをいまだ解釈できていない。
これはすごく気になるわけです。なぜ、これが書かれたのか。
気になるけど……答えは安易に聞かないことにします。
チキンラン、チキーンレースで締めってのも、すごく「らしい」なあ~~という感じ。
改稿前の応募作に対する選評を、改稿した作品に掲載する意味が、今となっては正直よくわからない。混乱の元では。
文庫の末尾にQRコード載せて選評と応募作を読ませるとかのほうがよいのでは。
ふぎー細かいところで言いたいこと、総評とかも書ければいいのに、ひどい頭痛に襲われ……また後日、追記するかも。
とにかく映像映えする舞台設定、アクション、役者映えしそうなモノローグとセリフたち。
だけど、日本の映画、実写にせよアニメにせよ、その手法、フォーマット、作風では、この物語の空気感や魅力を最大限には引き出せないように思う。
ぜひ海外の、アジアでの気合の入った映像化を、などと妄想してしまうのです。